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1952.2.5 東京生まれ B型 三碧木星
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中学2年の時、初めてギターを購入し楽器を始める。 近所の町なかのギター教室に通い、ベンチャーズ等の曲を譜面をたどたどしく 読みながら学ぶ。先生に向いていると誉められその気になる。中学時代は楽器をやっている仲間が少なく、居てもギターが多い時代で、バンドと言うよりは個人 練習に明け暮れる。

やがて受験した青山学院高等部に入学後、音楽の道が変化することに。入学後何を血迷ったか、さして運動能力がある訳でもないのに、バス ケット部に入り、夏の合宿後に向いてないと悟り、音楽のクラブがあることを知り門をたたく。そこで知り合った(後にティンパンアレーのドラムである)林  立夫氏との出会いがおおきく影響を及ぼすことに。 そのクラブはスタンダードナンバーやジャズの楽曲を演奏する事が多く、初めてジャズギタリストのレコードを聴いて練習することとなる。 当時は学校のあった渋谷界隈にはジャズのレコードを大音量でかけるジャズ喫茶なるものが数多く存在し、学校帰りに実は何がジャズだかわかっていないのに入 りびたり、ジャズを聴く。一方では当時隆盛を極めたエリッククラプトンの居たクリームや、ジェファーソンエアープレーンなどサイケデリックと言う 言葉が出始めのロックにのめり込む。歪んだギターサウンドがどうやって弾いているのかも分からない時代であった。同級生だった小原 礼氏(後の MIKA BANDのべーシスト)と五反田駅でお互いのファズを交換しあったのは遠い記憶である。まあとにかくウェスモンゴメリー、ケニーバレル、ラリーコリエル、 エリッククラプトン、ジェフベック、ジミーペイジなどジャンル関係無くギタリストを聴きまくる。よもやベースをやる様になるとは微塵も考えていなかった。 他校ではあったが、知り合いとなる鈴木 茂氏(後のはっぴいえんどのギタリスト)のプレイを聴き驚く。

高校卒業後、大学に進むも大半を音楽に時間を割く。林 立夫氏に誘われブレッドアンドバターのバックでギターを弾く。その頃知り合った伝説のシンガー南  正人氏のツアーバックもやる。アルバム「回帰線」では図々しくも 細野晴臣氏のベースとギターを弾いて共演する。まだベースをやるとは思ってもみない。
数ヵ月後、林氏より電話でブレッドアンドバターが岸部シロー氏と組んでツアーに出るがベースが居ないので弾かないかとの申し入れが。運命の電話が。 当時全くベースをなめていた自分は、ギターより弦が少ない楽な楽器だろうと思い, OKと即答する。1日か2日程リハーサルの後、ツアーに出る。 おそらく適当なベースプレイだったと思われる。
その後も声をかけてもらった知り合いのレコーディングでベースを弾くことに。 借り物のベースで弾いていたが、自分の楽器が無いとまずい為、YAMAHAのベースを購入。まだべーシストは仮の姿と思いギターはフェンダーのストラト キャスターを買う。
またまた数ヶ月後、林氏より連絡で小坂 忠氏 のバックバンドをやらないかとの事。いまのYAMAHAは知らないが、当時のベースは軽い音で、ちょっとマズイと思い、乗っていた車を売りフェンダーテレ キャスターベースを買う。林氏、松任谷 正隆氏とバックバンドを始める。 20歳の時であった。その頃、松任谷氏の関連で吉田 拓郎氏のレコーディングにも参加。小坂氏のバック解散後、五輪 真弓氏のツアーバック、吉田 拓郎氏 のツアーバックをする。その頃にはベースでやっていく自覚が。 吉田 拓郎氏のバックで知り合ったドラムのチト河内氏の誘いでトランザム結成。元フラワートラベリングバンドのギターの石間 秀樹氏のプレイに感動。 しかしまだ若かった自分はずっと年上の先輩に囲まれているだけでは駄目と思い、あてもなくバンドをやめる。
その頃またまた林氏より電話でティンパンアレー のレコーディングでセッションしないかとの事。二人で相談してベースのリフを決める。それがチョッパーズブギーとなる。そしてぶらぶらしている頃、原宿の レコード屋でたまたま会った高橋 幸宏氏に小原氏が辞めた後のMIKA BANDのベースが居なくて困っていて、更に現在レコーディング中との事。 ベースを持ってスタジオへ。そして流れのままイギリス公演に出る。 その頃にはスタジオミュージシャンとしての仕事も多く「かぐや姫」「イルカ」などのレコーディングに参加。高中 正義氏、高橋 幸宏氏とサディスティック スをやるも自然消滅。その頃、矢沢 永吉氏のレコーディングに参加。 当時使っていたB.C Richで弾いた「チャイナタウン」は今でも好きな自分のプレイの1曲である。

そうこうしている内にアレンジの仕事の依頼が。知識に乏しい自分は編曲や楽典の分厚い本を片手にアレンジを始める。しかしながらピアノも弾けない訳で悪戦 苦闘の連続。手がけた沢田 研二氏の「TOKIO」がリズム主体のアレンジが功を奏したのか、評価を得て、毎日がほとんどアレンジの仕事の日々となる。そ して作曲の依頼がある様になる。初めてチャート誌の1位になったのは、近藤 真彦氏の「真夏の1秒」と言う曲である。シングルではなかったが 八神 純子さんのアルバム曲「夜間飛行」は好きな楽曲である。その後は自分でも思い出せないほどの数多くの楽曲を作る。なかでも印象的だったのは「一世風 靡セピア」との仕事である。まだ20代前半の哀川 翔氏、柳葉 敏郎氏はじめメンバーとの曲作り、レコーディングは本当に楽しい仕事であった。 バンドの世話役と言うか、アレンジの仕事もあり、まだアルバム2枚目位の 頃の「ハウンドドッグ」との仕事も手作り感のある楽しい仕事であった。 八島氏の作った「涙のバースディー」は名曲です。

アレンジでは吉川 晃司氏とのセッションもいいですね。吉川氏とはその後も何年おきかにアレンジをしたり、ベースを弾いたり、一緒に曲を作ったりと続いて います。
また工藤 静香さんの曲作りも印象にありますね。手元に資料が無い為、正確な数はわかりませんが、シングル曲だけでも20近いのかな? アルバム曲を含めると相当数作ってますね。ひとりのヴォーカリストにそれだけの曲数を制作したのは、後にも先にも工藤さんだけだと思います。 シングル曲は毎回プロデューサーの渡辺 有三氏とアイディアを練ってましたね。セールス的に一番は「慟哭」だと思いますが、「めちゃくちゃに泣いてしまい たい」は好きな曲ですね。
そしてやはり「とんねるず」の二人との出会いも「野猿」に至るまで、みんなでアイディアの出し合いの連続でしたね。数多くの楽曲 を一緒に作った秋元 康氏と初めて組んだ曲はなんと山本 譲二氏の曲なんですね。こう文を書いていると色々な方との出会い、仕事を思い出して来ますが、プ ロフィールか回想録かわからなくなるので打ち切ります。

さて一方では20代の頃にビクターから、30代の頃にソニーからソロアルバムを出しましたが、一昨年昨年と久しぶりにソロを作りました。また1987年 にファーストソロアルバムのアレンジをした事のある藤井 尚之氏、そして長年親交のある、やはりファーストアルバムのアレンジをお手伝いした斎藤 ノブ氏とのバンド「Non Chords」をやっています。又最高のドラマー山木 秀夫氏とのデュオ「gym」もやっています。長くなったので、省略した 部分も多くありますが、むしろ今後をたくさん書ける様頑張る所存であります。話の時間軸はかなり昔の事ゆえ、若干ズレがあるかもしれません。失礼。

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